昭和四十八年九月五日
X御理解 第六十二節「昔から人もよけれ、我もよけれ、人よりも我が尚よけれと言うて居るが、神信心しても 我が身のおかげを受けて、後に人を助けてやれ神信心しても、我が身上のおかげを受けて、神信心しても手習いも同じ事一段一段進んで行くのじゃ、俄かに先生にはなれぬぞ」
きのうは神愛会でございましたので、ここの先生方も又関係教会の先生方も、集まって毎月信心の共励をするわけです、昨日はなしの中心になりましたのは、先ずは自分が助からねばと言う事でございました、まずは先生あなた方自身が助からねば、それは成程金光大神のお取り次ぎの働き、言うなら金光大神の働きによって助かると言う事ですから、それを取り次がして頂くのですから、言うならば何の力がなくても、お徳を受けて居なくても、やはり金光大神のお徳で助かる、けれども問題はその取り次ぐ先生自身が助かっておらねば、おかげにならん。只金光大神のお取り次ぎの働きと言うものは、やはり自分自身の助かりと言うものを、まず頂いて、例えば難儀な問題であっても、自分にとってはそれは返ってお礼を申し上げねばならない程の事だと、言うようなものが、自分自身も頂けておらなければ、信者と一緒に難儀になっとったんじゃ人は助からん。
まずはだから自分が助からねばと、こう話しをさして貰いましたが、なら今日の御理解を頂いても、所謂に俄かに先生になれないと、と言う事は私は金光大神のおかげ、取り次ぎを頂いて助かるのです、けれども、なら自分自身の言わば心の助かり、形の上の助かりではなくて心の助かりと言うものが、出来なければ本当の意味で人が助かると言う事にはならん。ですから自分自身が本気で助からねばならん。
その両面がなからなければなりません、それは教会にそれぞれの流儀というか、行き方がありますので、大変にきびしい先生のところでは、やはり信者もきびしく躾けられる、例えば祈念力だけで信者が助かると言う、これなんかもやはり先生の ですね、祈念力によって助かる祈念力になりません、この人ばかりはいくら言うたっちゃわからん、この人ばっかりは、この人の仕打ちはとね、その人の事に不平、不足、不満やら、そう言う責めるような心があって、黙っておったのではおかげにならんのです。
黙って治めるとはそう言う事じゃないです、所謂暖かい心で、親切な心で我が子を思うような、切なる心を以て黙って祈ってやるのです、そこには私の助かりもあり彼の助かりもあり、自他共に助かる。
だからそう言う意味の助かりを求めて行く事が、私は本当の御神徳をうけて行く道じゃないか、只御祈念力が、祈念力が強かった、まあそれこそ人が真似の出来んような、荒行でも平気で出来る、と言ったような事では形の上の事では、それこそ吹き荒ぶような、吹き千切るような勢いであるから、おかげを受けるにしても、それにはあの世へ持って行けるような徳にならないのだ、だから私どもにはやはりその方面の形の上のおかげを頂く事も大事、同時に心の上におかげを頂くと言う事はもっと大事、そこで私昨日のお話しの中にも申しました、若い夫婦のお話しを致しましたね。
昨日こちらの郷里の方へ、あちらへ帰って直ぐ電話が掛かって来た、「お母さん、夫婦仲良う帰らせて頂いた」あちらへ三時間位かかる車の中で、道々自分の心掛けが間違っておった事を、話し合って帰らせて頂いた。そしたら早速おかげ頂いたと言うて電話が掛かってきた、ここへ来る時までは今妊娠中だもんですからね、手足がこう腫れとった、指輪もはめられんごとあった、腕時計もはめられんごとあった、ところが帰った時にはね、もうそれがすっかり腫れがへっておった、本当にこの神様ちゃ有難い神様、直ぐお礼に行って下さいと言う電話が掛かって来た、昨日の話しを思い出して下さい。
ああ言う自分の心の中のそれこそ、いらいらとかもやもやと言ったものが、如何におかげの邪魔になるものか、それではなくてです本当に自分の心が、ああそうじやった親先生がおっしゃる通りじやったと、思うて喜びもって、よって金光大神の働きを引き出す事ができる、様様な助かり方があるだろうけれどもです、自分自身の心が助かると言うこと、自分自身の心が助かると言う生き方を、段々身につけてこれはもう限りない事ですが、事の焦点をおいての、信心でなからなければ、あの世にも持って行けると言う事にはならないのだ、と言うようなお話しでありました。
太陽と風と旅人との話しのようにね、それは激しい風を吹きまくって、吹きちぎるようにして、外套を脱がせる術もあろう、けれども暖かい光りを送って自ずと脱がなければおられんように、脱がせる方法もある、それも過程に於いては様々のところを通らせて貰うけれども、段々おかげを頂いて、まあそれを私の信心に於いても、二十年間の信心を顧みますと、様々のところを通らせて頂いた。
例えばお供え一つでも不浄 かかったお供えは受けなかった、と言うようなお話しをした、けれど今は例えばどのように不浄がかっておると私が感じましても、そこは私自身の心でお詫びをし、取り次がせて頂くと言う風に変わった。
言うなら暖かい心を持って人が助かって行くと言う、行き方に段々変わらせて頂いた。ここでよく言われる黙って治めると言う事です。今私が申しますように、私が黙って不浄のあるものを受けて、そのままお供えさせて頂くと言う事は、いうならば暖かい心でなければ出来んのです。只黙って不浄のものを供える、この人のお供えはいつも不浄があると言った事では本当のお供えにならない、それではお供えした人の助かりにも繋がらない、けどそこを私は詫びたり、願ったりしてお取り次ぎさせて貰う。
だから黙って治めると言う事は、ただ黙ってさえ居ればよいと言う事ではない、殊に人間関係の場合ただ黙って治めると言うちゃるから言うてはならん、そして心の中は風が吹き荒んでおるような心ではいけんのです。辛抱して黙っておると言った事ではおかげにならん、自分の心の中の暖かい、言うなら和賀心をもってです、和いだ賀びの心をもって、黙って相手の事を祈ってやるのでなければ、おかげに治めると言うことなんです。只黙ってさえ居ればよいと言うような心では、それこそ吹き荒ぶような心をじっと我慢しとると言うような事では自他ともに助かりません。
自分自身の心の中の暖かいものを送って、その暖かい心で願わせて頂いておかげを頂く時に、それこそ黙って治まる。それこそ何とも言えない助かり方になって来る。
そう言う事、神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじゃとこうおっしゃるのですから、そう言うところを日々の家業の中に、取り組ませて頂くところからです、はしめはスッキリしなかった、初めは穏やかでないこの心がです、二日も三日もかかってあったものがです、もう一日デスッキリするようになった、いやもう一時かんでスッキリするようになった。
例えばその事に直面しても、もうそれとはじめから暖かい心で受けられるようになったと言うようにです、一段一段進んで行くと言うことはそう言う事だと思うです、そう言う私は稽古をさせて頂くと言うことが、私は信心させて頂く者の楽しみ、と言うような事になってこなければ、信心が有難いものになってこないと思う。ですから先ずは自分自身が助かる、先ずは自分自身が助かれと言う事は、自分自身の心が助からなければならない。
勿論その心に伴ってくるところの形のおかげもあります、いやもうその形のおかげは当然の事としてついてくるはずです。
けれども私どもの場合はそうではない、形の上でおかげを願わしてもらはなければならない、それこそ風のような勢いでの信心もですいけないと言う事じゃありません、それもまたさせてもらわなければいけません、けれどもそれは形だけのものであって、心の受けものもなしに頂くおかげでありますから、これはお徳にはならん、あの世まで持ってゆくようなものにはならない。
けれどもそう言うおかげを願わんならん時もあるし、同時に私自身自体が助かる事のために信心の稽古、この二つの助かり方とです、私が先ずおかげを頂かなければ人にも話されんと言ったような事を言う人があります。それは形だけの事を言うておるからなんですね 帰ったもう帰ったとたんすでに手足の腫れが減った、それで指輪もはめられるようになったと言う、昨日だからお母さんがお礼に出て来ました。だから自分の心が黙っておるとかぐうぐう言うて堪えておるだけではいけない事がわかりますね。
同時にです例えばあの何と言いますか、合楽に行けば気分が治まる、合楽にゆけばおかげが頂けるがと、もうその初心な心がおかげを頂けるんですね。初めの間はようおかげ頂きよったばってん、この頃はちっとん頂かんようになったと言う事をよく聞きます。いわゆる信心がマンネリになっとるからです、参りもしよる拝みもしよる、所謂新たな新しい心が生まんとして動かないからです、そこんところを初心忘るべからずと言うような、事がありますように、私どもの心の中にマンネリになっておる、初心な心がないと言う事が、本気で心を使わして頂いて、如何にあれば心が生き生きとはずんでくるか、生き生きと新たな、初心な心が生まれてくるかという事は、絶えず自分の心の中にそれを問うて行く精進が必要ですね、そこにいわゆる形の助かり、即繋がることになるのです。
人より我は尚よけれと言う事は、我先におかげを頂くと言う意味でなくて、先ずは自分自身の心が助かれと言うこと、先ずは自分自身の心が助かれと言う事、先ずは自分自身がどのような問題でも、どのような事柄でも有難いと言う事に消化出来る、こなせる信心を頂けと言う事、そう言う心の状態を目指して頂いて、人を助けると言うことの助けになるならば、人も助かる我も助かる事になる。所謂黙って治めろと言う事なのですけれども、これは口でお導きをした話しでもなからなければ、信心しなさいと言った訳でもないでしょう、只黙って自分自身の心が太陽の様に暖かい心になって、それでいて彼も助からねば彼女も助からねばならない、助けて頂きたいと言う願いをです、暖かい心を以ていわば太陽が旅人に暖かい光りを送ったようにです、そこには送っておる者の自身の助かりと同時に、送られる者も助かると言う事になるのです。それが本当の黙って自分自身の心が助かると言う事に心がけて頂いたら、もう早速自分の心の中に有難いものが湧いてくるのです。
その有難いものをもって、人と祈って行く、願って行くと言う事になれば、そこからも人の助かる働きが出来れる事になって来るのです。ね金光大神の働き取り次ぎの働きと言うものを暖かい心で、引き出して貰うと言う信心、又はがむしゃらに祈り願い修業させして頂いてどうでもと言って願いしなければと言う事もある、それもいけない事じゃないけどそれは形のおかげを頂くだけであって、それは徳に繋がるようなことにはなりません。人もよけれ我もよけれ人より、我が尚よけれと言うておるが、と言うことをですね。
今日は聞いて頂いた訳ですね、人より我は尚よけれと言うのは、人よりよい着物を着たり人よりよい食べ物をたべられるようになって、と言う意味じゃないです、まずは信心させて頂く者自身が、先ず私の心が助かるための、精進をしなければ、昨日の御理解ではないですけれども、和賀心を頂かせて頂くための修行をせよと言う風に、昨日は申しましたですね。
和ぎ賀ぶ心を頂かして頂くための修行さして貰う、そう言う心がけにならして頂くと神様はもう早速です、あのなんとはなしに有難い心を送って下さる、有難い心にならせて頂けれる、そう言う心で人の助かりおも願って行くと言う信心、それがしかも一段一段進んで一段一段垢ぬけした、すきっとした心の状態になって行く、そう言う心で又人を願って行く、成程一段一段自分の信心が進んで行くことが楽しく有難い事になって来る。
勿論それに一段一段おかげもまた高度なおかげになって来る事は勿論ですよね。
どうぞ。